名古屋市中区錦一丁目、桜通と堀川が交わる桜橋【昭和12(1937)年竣工】 の東南に、材惣の本社がある。橋の東南一帯はかつて鈴木家の本宅があった場所であり、長い間材惣はここを本拠地としていた。後に、本拠地は西古渡(現・名古屋市中川区山王)へと移ることとなるが、平成23(2011)年、再び創業の地へと戻った。今その周辺を見渡せば、オフィスビルやマンションが林立する都心の一等地、堀川がわずかに昔日の面影をとどめている。
現在の堀川と本社ビル
名古屋城下は清須越えにより人為的に配置された町である。
堀川は名古屋城建設の際、宮(熱田)から建築資材を運ぶため、そしてその後の物資の運搬のために開削された。その時、堀川沿いの五条橋から中橋までの元材木町、中橋から伝馬橋までの下材木町、その1本東の上材木町が設けられた。この「材木三カ町」に材木屋が集中的に居住し、南に続く
初代惣兵衛は、元材木町で本格的に材木業を始めた。さらに2代惣兵衛は下材木町に家を購入し、材木問屋の経営を軌道に乗せた。三カ町に住む者に限り古渡・日置(現、名古屋市中区)辺に木場(材木置き場)を所有することができたため、古渡に木場を持った。18世紀後半の3代、4代惣兵衛の頃には、材木屋惣兵衛の名前は世間に知られるようになった。
文化・文政年間の東本願寺名古屋別院(真宗大谷派名古屋別院、以下東別院)再建工事の頃から物流の拠点は西古渡(現、中川区山王)の木場に移っていた。それでも奉公人が忙しく働き、荷車が出入りして、活況を呈していたと推察される。
名古屋城の南約1㎞に発祥した材木三カ町から、さらに南に3㎞の西古渡、そして西部木材港(愛知県海部郡飛島村)へと、木材加工と流通の拠点は川上から川下へと歴史をたどっている。