茂三郎は明治8(1875)年、数え20歳で8代鈴木ハ兵衛を襲名し、家督を相続した。鈴木家の窮状は明治5(1872)年頃から8(1875)年に至る時期が最も厳しかったといわれる。青年ハ兵衛が家運の立て直しの第一に手がけたのは、貸金の回収とともに徹底した家財の整理であった。この整理で、歴代当主が愛蔵してきた名器名品類は、一部を残してほとんどが売却された。また事務改善にも力を尽くした。当時普通に行われていた大福帳を複式簿記的方式に切り替えたほか、“店”と“奥”の会計区分を明確にしたのも、その一例である。
明治12(1879)年の東御岳中林区木曽小林区管内の民材木曽川狩下の払い下げでは、仕出業者31人中、鈴木ハ兵衛は4万尺〆(*)のうち1万1000尺〆(ヒノキ・サワラ、生産地点:新開村大沢)を扱った。全体の27.9%を占め、2位以下を大きく引き離している。
特に、明治21、22(1888、1889)年の木曽大滝村の大規模の官有林の払い下げは、8代ハ兵衛が一番札を引き、入札額は約3万7000円(現在の価格で約2億6000万円)であった。その払い下げ材は高い価格で販売でき、利益につながったといわれる。この事業の成功で家業を立て直し、その後における経営発展の基礎を固めることができた。
明治30年代には、製函などの加工品が増えたことにより、動力製材機の導入など画期的な設備投資が繰り返された。40(1907)年に名古屋港が開港された。これにより北海道材、樺太材、北洋材、南洋材などが入荷するようになった。木材取扱量が急増したことから、大正時代には貯木場の拡張計画が進められた。
*尺〆(1尺×1尺×12尺の材木)