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ZAISO HISTORY 08

公人としての8代ハ兵衛

[表]
名古屋政・財界の厳正な世話役

 名古屋区から名古屋市となった明治22(1889)年は、東海道線が全線開通し、市内に初めて電灯がともった。当時の名古屋市の人口は約15万7400人であった。この年の10月、鈴木ハ兵衛は第1回名古屋市会議員選挙に当選した。大正10(1921)年、任期満了で退職するまでの32年間毎期選出された。その間市会議長の要職をつとめた。


名古屋産業界の先達として

 8代ハ兵衛は王滝官有林の伐出後、本業の材木業が好転するに及んで、多方面にわたる会社事業に関わりを持ち、意欲的な活動を展開した。主な役職の就任を時系列的に上げると上記表の通りである。
 こうして明治・大正期を通じで、わが国近代産業の揺籃期ようらんきを担った鈴木ハ兵衛の業績は大いにある。そのなかでは次のような事例もあった。
 明治末年、福寿火災保険の創立に尽くし、自ら監査役に就任した。かつて自宅が類焼した折、防火任務を有する建築資材供給者の立場から材惣消防組を組織した。それと同じ動機からと「鈴木鹿山傅」は記している。
 大正14(1925)年の正月、ついに病臥の身となったハ兵衛は「死時に臨みて遺言の要なし、平生の言行すなわち遺言なり」と養嗣子鈴四郎に語り、同年12月28日、70歳の生涯を閉じた。故人は死に先立って従五位勲三等旭日中綬章を授けられた。明治39(1906)年勲四等旭日小綬章に始まる叙勲綬章は18回に及んだ。

[8代ハ兵衛書(鹿山傳より)]

8代ハ兵衛書(鹿山傳より)